アプバク戦勝史跡博物館/ラックガム=ソアイムット史跡区
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生態保護区のあたりからティエンザン省に入ります。流石にこのあたりは米どころだけあって田んぼがきれい。普段の都会ぐらしではなかなか嗅げない稲の甘い香りにうっとりします。
Mỹ Phước町から田舎道を下ると、アプバク戦勝史跡博物館の案内がありました。
まずは付属公園の「tiểu đội gang thépの像」。
tiểu đội は漢字では「小隊」だが規模は日本で言う「分隊」、gangは鋳鉄、thépは鋼鉄の意なのだけれど、gang thépと続けると「鉄の意志を持った」というような意味になるらしい。というわけで日本語訳は「鉄血分隊の像」でしょうかね。
で、肝心の博物館の方ですが……閉まっていました。敷地内のカフェ屋台にいたおばさんに聞いてみると、「今日は朝から停電だから開けてない」とのこと。うーん、ここ数日ベトナムは猛暑による電力不足がすごいのですが、その影響がこんなところにも。しかも休憩のために冷たい飲み物を頼もうとすると、「冷えてるのはないよ」とのこと。しばしベンチで放心……。
なんだかわかりませんが、近くの畑の中に「炎上する米軍装甲車」のハリボテ?看板?もありました。
アプバクから南下して、ようやく国道1A号線に。ここからさらにメコン川(ソンティエン、ティエン川)に向かって南下すると……
18世紀後半、黎朝ベトナムでは、重臣の派閥争いがもとで南部は「広南国」という半独立国となっており、北部との内戦状態になっていた。そんななかビンディン省タイソン県で起こった「タイソン起義」という反乱はまたたくまに広南国を滅ぼしたが、広南国の最後の王子・阮福映はシャムに逃れ、シャム王や周辺少数民族・フランスなどの手を借りて報復戦争を仕掛けた。1775年にタイ水軍はメコン川に進軍したが、ここラックガム=ソアイムットで待ち伏せをしていたタイソン軍に打ち負かされた。その後タイソン軍はハノイの黎朝が呼び込んだ清朝の軍も撃破し(ドンダーの戦い)、短命に終わったがフエにタイソン王朝を建てた。
さて、写真を見ればおわかりであろう。……ここも閉まってました。いやほんと、ベトナム政府は最近「観光で周辺国にボロ負けしてる」と大騒ぎしてるんだが、こういうところやぞ?
というわけで今日の目的地、3連続で閉まってましたねえ……。
とはいえ博物館敷地からメコン川(ティエン川)に出られるテラスが設けられており、川を眺めるくらいのことはできました。
地元の中高生などが夕涼みにきていました。
ここから更に25kmほど走り、ラックミエウ橋を渡りベンチェ市まで。ベンチェ川周辺をうろうろしつつ、市街からちょっとはずれた地区にあった Galaxy Hotelという1泊300千ドンのホテルに投宿。なかなか清潔でいいホテルでした。
(続く)
1962年1月2日にここアプバクで起きた戦闘。南ベトナム解放民族戦線が200名のゲリラ部隊で待ち伏せし、アプバクに侵攻してきたヘリボーン部隊・装甲車部隊合わせて2000名のベトナム共和国(南ベトナム)軍+米軍を各個撃破した戦闘。この戦いで南ベトナム+米軍は5機のヘリを撃墜され、3機の装甲車を撃破された。解放戦線にとっては初の地対空攻撃の成功となり、ゲリラ部隊にヘリが落とされたことは米国の世論にも大きな影響を与えたという。